GOLDEN NIGHTが好きすぎてつらい

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オタクの記録と考察

花束みたいな言葉の贈り物/ジャニーズWEST「ブーケ」

今回も好みの曲はあるかな、なんて軽い気持ちで聴いたCDに、とんでもなく惹きつけられる素敵な曲があった。

2022年に入って最初にリリースされた、ジャニーズWESTの18枚目のシングル「黎明/進むしかねぇ」。その通常盤に収録されている「ブーケ」という曲。

 

軽い気持ちで再生したら、「もしかしてこれは真剣に聴かなきゃいけないんじゃ?」なんて自分の直感が働いた。曲が進むにつれて歌詞に意識が集中していく。はじめましてでこんなに引き込まれる曲に出会えたのは久々だった。

 

「ブーケ」はNakamuraEmiさんという方からの楽曲提供。最初に聴いてすぐに検索かけたら、シンガーソングライターでご自身でもバリバリ歌ってらっしゃる方だった。1曲YouTubeで聴いてみたけど素敵な歌声だった。そして、この曲がなんと初めての楽曲提供だそう。こんな素敵な曲を初めての提供曲としてつくってくださるなんて、めちゃくちゃ幸せなことなんじゃないだろうか。

 

今回のエントリは、そんな「ブーケ」の歌詞について個人的な考察を交えて書いていきたいと思います。ちなみにどういう意味が込められた歌詞なのか等は何も見ていないので、わたしなりの解釈・考察です。

 

「ブーケ」歌詞

どうしてだろう 僕が飲んだ緑茶だけ濁って見えて
どうしてだろう シミ抜きしたはずなのに消えなくて

寂しいとも違う 悔しいとも違う そんな時があって
汚い気持ちを 落としたい時 あなた思い出す

大人になっても変わらない 悩みは大抵変わらない
抜け出した瞬間また来た 御伽の国じゃないから
ひどい顔で泣いた日も 欲張って転んだあの日も
錆び付いて真っ黒なのに あなたは言ってくれた

花束みたいだ綺麗さ 派手じゃない色だって必要さ
大丈夫さ 抱えきれなくて 溢れそうな時は
一緒に抱えるよ

そんなこと言うから 忘れてた深呼吸してみたよ
そんなこと言うから 錆びたとこ少しずつ溶けてくよ

「もしこうなったら もしダメだったら」は 旅の荷物になる
大抵のことは 笑い話になる 時間て素敵だ

胸が傷ついた音は 誰にも聞こえないから
忘れるくらい綺麗な 音を探し続けるよ
また濁って見えても 汚い気持ちになっても
あなたが言った言葉を 口ずさむよ

花束みたいだ綺麗さ 派手じゃない色だって必要さ
大丈夫さ 抱えきれなくて 溢れそうな時は 一緒に抱えるよ
花束みたいな日だって 錆び付いて濁った日だって
大丈夫さ 抱えすぎたら 御伽の国じゃないから ちゃんと手放すよ
そして思い出すよ 僕が花束なんて 笑っちゃうよ

花束みたいだ 大丈夫さ

 

考察

曲中で、登場する時間軸はふたつ。現在の僕と、過去の僕。
登場人物もふたり。僕と、「花束みたいだ綺麗さ」と言ってくれたあなた。

わたしなりの解釈だけど、端的に言うと「生きてる時間の中で虚無に襲われたとき、昔誰かがくれた言葉にずっと救われている」ことを歌ってるんじゃないかなあと思う。生きるすべての大人へ言葉の花束を贈ってくれている。

 

シーン1/現在の僕

曲の冒頭は現在の僕の思考から始まる。

 

「僕が飲んだ緑茶だけ濁って見える」のも、「シミ抜きしたはずなのに消えない」のも、気持ちの面での描写が大きい。

わたしも作品づくりをするとき、完成品を周りの人が褒めてくれても、「実は見えてない裏面は雑なんだよな」とか「ここは妥協しちゃったんだよな」とか…自分がつくるとその工程もすべて見てきてるから、他人から見ると一見問題なしでも自分から見るとあまり良く見えてなかったり。

それはある種、自分への妥協やごまかしだったりする。歌詞の「汚い気持ち」とは、そういうなんとなく自分がうまく生きていけてないように感じる自己不信のことなんじゃないかな、と思う。

 

寂しいとも違う 悔しいとも違う そんな時があって

これめちゃくちゃ分かる〜〜〜と思ったんですが、どうでしょう。ありません?
病んでるわけじゃないのに、なんとなく心の穴に風が吹いてる感じ。特別しんどかったり思い当たる何かがあるわけじゃないというのがまたしんどい。言葉にあてはめるなら「虚無感」とか「無気力感」が近いかな…。

そういうときって、普段心の奥で息を潜めてる“ヤツ”が、さっきの「汚い気持ち」が、突然ぶり返したりしてくる。

 

曲中の「僕」は、そんな気持ちを落としたいときに「あなた」を思い出すという。

 

シーン2/過去の僕

大人になっても変わらない 悩みは大抵変わらない
抜け出した瞬間また来た 御伽の国じゃないから
ひどい顔で泣いた日も 欲張って転んだあの日も
錆び付いて真っ黒なのに あなたは言ってくれた

冒頭で、わざわざ「大人へ」とわたしが書いたのは、ここの「御伽の国じゃないから」という歌詞があるからです。

「御伽の国」と辞書検索すると「おとぎ話に出てくる、美しく楽しい世界。」と出てくる。つまり、物語ではなく生きてる人間だから、うまいことハッピーエンドを迎えてもその続きがあるってことです。悩みがひとつ解決しても、虚無を抜け出した瞬間にまた別の虚無が来るんです。生きてるから。

 

そんなとき、“僕”は“あなた”からもらった言葉に救われる。

花束みたいだ綺麗さ 派手じゃない色だって必要さ
大丈夫さ 抱えきれなくて 溢れそうな時は
一緒に抱えるよ

 

シーン3/少し前向きになる過去の僕

「錆び付いて真っ黒」だった僕は、多分自分じゃどうしようも変えられなくて、動けなかったんだと思う。でも人からの言葉って偉大で、あなたの言葉によってやっと自分に目を向けることができたんだろうな。

そんなこと言うから 忘れてた深呼吸してみたよ
そんなこと言うから 錆びたとこ少しずつ溶けてくよ

ここに「そんなこと言うから」という言葉をチョイスするのが絶妙だと思っていて。この時点では、まだ半信半疑。あなたがそう言うなら、っていうニュアンスが入っている。
これは別に“あなた”以外の人でもよくて、とにかく「他人から丁寧に大事に扱われている」という意識を持たせてくれたことが重要。この言葉をもらったことで少しずつ雪解けできたというように、良い方向にだんだん向かっていけたという時間経過が見られる。

 

「もしこうなったら もしダメだったら」は 旅の荷物になる
大抵のことは 笑い話になる 時間て素敵だ

この歌詞、素敵ですよね。胸打たれた人も多いんじゃないかなと思う。
わたしはこの中でも「時間て素敵だ」という歌詞にとても共感します。壁にぶち当たっているとき、うまくいってもいかなくても、少なからず時間が経てば終わることが多いから。時間は絶対進んでるから、確証のない励ましよりも確実に終わりに進んでいるという事実が何よりの励ましになる。というのが、わたしの持論です。
でもこれって、大人にならないと分からなかったことなんだよなあ。

そしてこの歌詞を見たときに、重岡さん作詞作曲の「バニラかチョコ」が頭に浮かんだ。

「心配事の9割以上はホラ
おこらないって言ったでしょ?」
ハイハイ よく笑うぜのんきに

ー「バニラかチョコ」

偶然だろうけど、似たマインドを持っていらっしゃるのかもしれないね。

 

ーそれから、あなたからもらった言葉に何度も僕が救われている。人間だから、また汚い気持ちが襲ってくる日は何度もある。でも前と違うのは、その度に救ってくれる言葉を僕が持ってるということ。

胸が傷ついた音は 誰にも聞こえないから
忘れるくらい綺麗な 音を探し続けるよ
また濁って見えても 汚い気持ちになっても
あなたが言った言葉を 口ずさむよ

花束みたいだ綺麗さ 派手じゃない色だって必要さ
大丈夫さ 抱えきれなくて 溢れそうな時は 一緒に抱えるよ

最初の2行、切なくておそろしく綺麗な歌詞だと思う。人に言葉で傷付けられて心折れるときって、トドメの一言が刺さったときの何とも表現しがたい音あるよね…と。けどその音って自分しか分かんない。そこから救ってくれるのもまた言葉だから、言葉を向けてくれる人や機会をずっと望みながら生きてる。そんなふうに思った。

ここまでが過去の僕。

 

シーン4/現在の僕

歌詞カードでフレーズの塊を見ると、変なところで区切ってるなあと思われるかもしれない。でも、わたしはここで過去と現在に区切られてると思う。

花束みたいな日だって 錆び付いて濁った日だって
大丈夫さ 抱えすぎたら 御伽の国じゃないから ちゃんと手放すよ
そして思い出すよ 僕が花束なんて 笑っちゃうよ

花束みたいだ 大丈夫さ

 

大きく違うのは、「抱えすぎたらちゃんと手放すよ」と言っているところ。
推測だけど、多分現在の僕のそばに“あなた”はいない。

大丈夫さ 抱えきれなくて 溢れそうな時は
一緒に抱えるよ

大丈夫さ 抱えすぎたら 御伽の国じゃないから
ちゃんと手放すよ

なぜ手放そうとしているのか?
それは一緒に抱えてくれる人がいないからなんじゃないかな。ふたりで一緒に抱えられても、ひとりだと溢れかえったら手放して減らすしかないよね。

でもそれって、別に不幸なことじゃない。手放すことができるくらいに、過去から大人になっていて、自分で手放すという判断ができる程度には自分へ意識を持っていけてる状態にあるということだと思う。

あと、最初の方にも書いた「御伽の国」がここでも出てきている。「御伽の国じゃないから」=大人としての分別と解釈してます。

 

ラスト、解釈が分かれそうなところがここ。

そして思い出すよ 僕が花束なんて 笑っちゃうよ

歌声で切ない印象を受けるので、苦笑っぽいニュアンスにも受け取れるけど、それだとなんか違うしなあ…。と思い、わたしが出した解釈はこう。

「花束みたいだ」という言葉に対して、初めて言われたときは真に受けたのだろうなと推測。でも病んでた僕には真に受けるくらいがちょうどいい薬になってて、実際に救いの言葉になった。

現在の僕は「良いふうに言い過ぎだよ」と昔を懐かしんで笑えるくらい、ちゃんと自分のことが客観視できていて、精神的に元気になってる証拠。「大抵のことは笑い話になる」という素敵な時間経過の結果です。

 

そして曲の最後は、あの言葉で締めくくられる。

花束みたいだ 大丈夫さ

あなたという人間がそばにいなくなっても、言葉が力を持って僕を救い続けている、というメッセージを感じた。この曲の主人公の心の中では、この言葉があたたかくリフレインしているんだと思う。

それと同時に、この最後のフレーズは誰が言った言葉なのか明確な表記がない。だから、もらった言葉を他の誰かに、今度は自分が贈れたら良い。そんな希望も、この最後のフレーズに乗せられているようにも思う。

別の曲の話になるけれど、メンバーが自分のソロパートを各自で作詞した「はんぶんこ」で、小瀧さんは「幸せのカケラ拾い集めて 誰かに分けられる人になろう」と綴っていた。それを思い出すから、歌声は重岡さんで締めくくられているのだけど、詩だけを追うとわたしの中では小瀧さんの顔が浮かぶのだ。

 

もらった花束を、また誰かへ贈る花束へ。それが、傷付けられたときの音を忘れさせるくらいの綺麗な音、すなわち救いの言葉になることを祈って。

わたしが解釈した「ブーケ」という曲は、そんな歌でした。

 

感想

言葉って凶器にも救いにもなると思ってて。
正直、わたしは「凶器」になったときの威力の方が怖くて、ブログを書くときも結構そのへん怯えて書いてます。自分の書いた言葉が、誰かのナイフになったら嫌だなと思って。

でも、人が何気なく発した言葉が自分の救いになったり、心を支えてくれたり、素敵な威力を発揮したりするのも事実。自分が発する言葉も然り、誰かにとっての救いになってるかもしれない。

 

あと、「花束みたい」という言葉ひとつにも色んな比喩ができる。

花束みたいな日だって 錆び付いて濁った日だって

このフレーズを見ると、晴れた気分の自分も病んでいる自分も、という「色んな顔を持つ僕」という意味になるけど

花束みたいだ綺麗さ 派手じゃない色だって必要さ

このフレーズを見ると、「色んな人がいる社会」という意味にも受け取れる。派手でイケイケな人ばかりじゃダメで、あなたみたいな人も必要で、その色々が社会をつくってるから「綺麗」なんだよ、みたいな。

 

大人になることや時間が経つことへの肯定、人に言葉を掛けることの尊さ。そんなことを感じさせてくれた素敵な曲でした。

この曲を聴きながらブログを書いていて、わたしにも救いの言葉をくれた友達がいるなあと思い浮かんで、大切にしたいと思った。これを読んでくださったあなたにも、そんな言葉がありますように。